日本インテリアプランナー協会 中国

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マイ・アーキテクト

建築家のルイス・カーンはニューヨークのペンシルバニア駅で亡くなった。1974年3月のことでした。インドからの帰途、トイレで心臓病の発作におそわれたが、なぜかパスポートから住所が消されていたため、身元が判明するまで3日間、死体安置所に保管されていたそうです。享年73才。


あれは1985年の7月頃、私はカーンの建築に触れたくなり、アメリカを巡礼した。母校ペンシルバニア大学のカーン記念館を始めとして、同じキャンパス内にあり、彼の名を一躍世界的なものにしたリチャーズ医学研究棟、エール大学のキャンパス内にあるアート・ギャラリーとその道向かいにある英国美術研究センター、テキサスにあるキンベル美術館などの空間を体験することができた。エール大学のキャンパスにはエーロ・サーリネン、フィリップ・ジョンソン、ポール・ルドルフ、SOMなどの著名建築家の作品が点在している。もちろん中庭形式の古いキャンパスも混在しているので、さながらアメリカの建国時代から現代までの生きた建築博物館のようでもあった。振り返えってみれば、カーンの書物、図面、建築から多くを学んだ。プロジェクトが行き詰まった時など、カーンから新しい勇気を何度となく貰ったことがあった。

建築は測り得ない(unmeasurable)もので始まり、設計している時は、それを測り得る(measurable)ものとし、完成したらまた測り得ないものとならなければならないとカーンは言っていた。出来上がった建築空間は本当に測り得ない感動を与えてくれた。

カーンは1901年、エストニアのユダヤ人として生まれた。4才の時に家族とともにフィラデルフィアに移住した。幼少時代に貧困や顔面の火傷という悲惨な事故を経験した。若い頃のカーンは芸術と音楽で有能であったことから、絵画やピアノ演奏などで金を稼いでいた。ペンシルバニア大学より奨学金を得て、偉大な古典主義建築家であったポール・クレの下で学んだ。カーンは50才を過ぎて頭角を現した。まさに大器晩成の建築家であった。レンガ、コンクリートと光の幾何学構成により、稀少ではあるが力強く、精神的な建築群を創造した。

カーンには本妻の他に二人の愛人がいて、その二番目の愛人ハリエット・パティンソン(造園家)の息子が映画監督となり、父カーンのドキュメンタリー映画を作ったというショッキングなニュースが届いた。日本では、2006年初めに東京渋谷でこの映画「マイ・アーキテクト」が封切られた。何度となく観賞の機会を窺い、そして諦めかけていた9月頃になって、やっとこの映画は広島の鷹野橋サロンシネマにもやってきた。

この映画の中で、今は亡き建築界の大御所フィリップ・ジョンソンが自邸の広い芝の庭をヒョコヒョコと犬と歩きながら息子ナサニエル・カーンのインタビューに答えていた。20世紀を代表する建築界の4巨匠についてコメントするシーンはジョンソンらしい一世一代の軽妙な語り口でした。「ルー(ルイス・カーン)は誰からも愛された話し易い人だった。ミースは無口で、ライトは近寄りがたくておこりっぽく、コルビュジェは気難しかった。ルーはこの<ガラスの家>に来たことはなかったよ。なぜかって?それはただのガラスの四角い箱だからさ」と。(このジョンソンの4巨匠に対するコメントの細部が曖昧だったので、正確を期すため、鷹野橋サロンシネマを再訪したが、徒労におわった。あとはDVDの保存版を手に入れるしかないのかなと思っている)

ペン大で建築の学生に話しかける有名なシーンも記録されていた。「レンガに何になりたいと話しかける。アーチになりたいとレンガが言う。アーチは金がかかるからコンクリートのまぐさでやるけどいいかい?とレンガに聞くと。アーチの方がいいと言う。ここが大事なんだ。素材に敬意を払うべきなのだ」と。

元カーン設計事務所の所員の厳しい証言もある。「カーンは所員達の家庭生活をまったく気にかけず、数人の所員の私生活をメチャメチャにしたんだ。彼は本当にタフで、仕事への精神力が強かった。死んだ時、50万ドルの借金が残ったと聞く」と。

本妻のエスター・カーンが回顧するシーンもあった。「あなたの類いまれなエネルギーを事業にいかせば、もっと金持ちになれるのにと言ったことがある。ルイスは金儲けにはぜんぜん興味がないのだと言い切った。またある時、友人を自宅に招いたらルイスはピアノを弾いてくれた。ある曲をベートーベン風にも、バッハ風にもジャズ風にも演奏してくれた。そしてひょっとしたらすぐれた作曲家になっていたかもしれないと冗談を言っていた」と。

またルーブル美術館のガラスのピラミッドなどを設計したI.M.ペイもインタビューで語っている。「カーンは営業が苦手だった。施主が苦言を呈した時、私は中国人の処世術にならって、その場を引き下がり、次の好機を見つけようとしたが、彼は持論を止めども無くしゃべり続け、施主を失った。私は多くの建築を設計したけれど、建築は量ではない。質なのだ。しかも建築は時を超越することだってできる。カーンのソーク生物学研究所はその点で注目すべきだ。チーク材は年月と共に朽ちあせても精神性はそのまま残っている。あの建築は今後も時と向き合っていくだろう」と。

バングラデシュの建築家シャムール・ウォレスが証言する。「この国会議事堂は30年前のわれわれの国では考えられなかった建物ですよ。貧乏国だということを彼は気にかけなかった。実現するか否かもね。だから最貧国にかれの最大の建物ができた。彼の命を代償にしてね。彼は多くの人を愛するがゆえに家族を愛することをおろそかにする事があったかもしれない」と。映画はカーンの死後、完成したという議場とそこに星座のごとくちりばめられた輝く照明と高い高い測り知れない魅力的なドーム天井を見上げるシーンで終わっていた。

2006.9.30 – 日高卓三

この記事は旧エキサイトブログ「室内気候」にて人気だったエッセイを再編集したものです。
投稿日と執筆日では年数が離れていることをご了承ください。

編集:北村

https://www.youtube.com/watch?v=6iIULF16eYw
2021.12.4

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